最近私のカラオケ十八番で「他人の関係」という古い歌があるのですが、「またもー燃えるのー」という歌詞があり、機種によっては「またも」だったり「又も」だったりするのでいつか「股も」がでてくるんじゃないかとヒヤヒヤしながらそこだけをフォルティッシモで熱唱している土屋遊です。
まあだいたい絶叫するためにカラオケに行ってるのでほとんどフォルティッシモといっても差し支えありません。日常生活においても同様ということがいえますが、最近は少食のせいかあまり大声が出せなくなっています。なぜか自分でも予期せぬ突発的奇声はまだ稀に出るのですが……これは一種のビョーキでしょうか。
なぜか歌う時だけは肩があがっているようですので、
歌いながら服を着ればいいのでは……と言われております。
今までは赤の他人をビビらすほどの声の持ち主でしたから、それはそれで問題だったのでしょうが、自分にとってはなんのデメリットもありませんでした。しかし、大声が出せなくなって気付いたことがあります。飲み屋で店員さんを呼び止められないということです。わたしにとってはこれはかなりのショッキングな出来事であり、友人らに「これ頼んで……」というときの屈辱ったらもう!
そこでわたしは考えました。アクションだ。オーバーアクションなら誰にか知らないけど定評があるっ! で、両腕を挙げて広げて左右に大きく揺らすという行為を確立したわけですけど、今年スケボーで脱臼してからずっと肩を痛めており、(40,50肩の疑念もぬぐいきれませんが)その都度イタタタタタとなる。これもまた屈辱だし、コートを着るのも他人の手を借り、そのたびに「ばあさん……」と言われるのも屈辱だし、もう屈辱まみれの生活ですが、まあアレだよね、開き直るのも一種の老化として真摯に受け入れたいと思います。先日、生粋の48才になりましたので、もう還暦といってもいいお年頃ですから。
しかしそんなこんなで人はやっぱり一人では生きていないんだなぁ~と痛感している次第です。ここで、いきなり社会派な発言ですが、高齢化問題。一人で生きているご高齢者はたくさんいるはずですが、本当にご苦労なさっているんだろうなあ……と体感としてしみじみ思いました。なんとかなんないっすかね。こういうのってTwitterとかってクソの役にも立ちませんよね。
わたしは50までにきっぱりこの世と縁を切って地獄に堕ちたいと思っているヘタレですから先の心配は皆無ですが、どっこい生きてる高齢者の方々においては、そのド根性を崇拝し、なんとか救いの手を少しでも差し伸べてきたいよな~と、高齢の両親をほったらかしにしながらそんなことを真面目に考えてみたりもしている昨今です。頑固ジジイ、ひねくれババアでもいいんです。その方がより面白いですから、こちらも闘志が湧くというものです。
ところで、まるっきり話は変わりますが、先日ふざけていたら「もうちょっと建設的な話をしようよ」と真顔で言われました。け、建設的……。んー。幼少のころから、積み木が苦手でウギャアアアー!と破壊したくなるわたしにとっては、やはり建設的な話って向かないんだと思います。思いますっていうか向かない。三つ子の魂百までっていうし。
ダメ。セッタイ。
のように、わたしの標語に「ムリ! 建設的!」が加わったことをここにご報告しておきます。
ハッ! 今日は先日DPZで公開した「疑心暗鬼のまま占いをしまくる」の紹介をするための更新でした。危なく忘れるところでした……。
まるっきり、これっぽっちも、1ミクロンも占いの類を信じていないわたしが占いをしまくって、答えが同じであれば信じてみようじゃないか、という、高飛車な記事になっております。
結果は……未読の方はこちらをご一読ください!
見よ、この疑心暗鬼のまなざしを!
疑心暗鬼のまま占いをしまくる - デイリーポータルZ:@nifty