【に】におい
夜の匂いがある。アダルトチックなものではなくて、本当に『夜』の匂いだ。夜道ではない。”夜道を歩いて”うちに来た人だけが放つ独特な匂い。そんなときにはいつも
「あ、夜の匂いがする」
と言って、相手はハテナという顔をする。あの匂いは、誰であっても同じ。もしかしたら、冬だけに限られる、冷たい空気の匂いかもしれない。でも昼間はしないから、やっぱり夜の匂いなんだろう。あれを嗅ぐと、どんなにケンカをしていた相手でもつい許せてしまうような気がする。夜道をごくろうさま、と、愛おしい気持ちになってしまう。何らかの作用があるのかもしれない。『夜のにおい』香水でないかな。いや、やらしい意味じゃなくて。つかなんなの、
ベッド専用香水とかって。
男のつける匂いはまったく悪臭だと思う。頭が痛くなるような、きらいな匂いが多いうえに、コロンを付けるという行為そのものがおぞましい。彼の家の洗面台に、たくさんのガラスの瓶が並んでいたのを見た時は、心底辟易した。あーヤダヤダ。あれはいったいなんのつもりだろう。臭いのか、臭いからコロンをつけて、なんとかごまかそうとしているのか。体臭を消すために用いる香水は、本来の付け方として正しいのかもしれないが、どっちにしてもやめていただきたい。わたしはまだ腋臭のほうがマシだと思える。
一時は男が変わるたびに、つける香水を変えていた。なんとなく、自分のつける匂いが、以前の男を彷彿とさせてしまうのが彼氏に少しだけ申し訳ないような、うしろめたいような、そんな気がしていた。だけどもそんなに好きな匂いに巡り合うわけでもなく、最近ではもっぱら同じものをつけている。たまに
「あ、アソビの匂い」
って言われる時がある。オカンにはいつも、ケダモノのにおいがするー! と言われているので、いい匂いが定着するのはちょっとだけうれしい。
友人でもあり同僚でもあるKは、とても匂いに敏感で、わたしが煙草を吸って事務所に戻ったときなどは、クサイクサイ! とまるで害虫でも追い払うように、ファブリーズを吹きつけてきていた。髪の毛がにおうと言われ、給湯室で洗髪したこともある。もちろんドライヤーなんてないから、タオルを頭に巻いたまま仕事をしていたが、なんだったんだろ、あれは。今考えると異様な光景だ。彼女は社長にも、「男くさい」から席を代わってくれと申し出たこともあった。とにかく万事がポジティブである社長は、くさいと言われたことよりも、男と言われたことに「男扱いされたー」と、嬉々として席替えを承認していた。ちがうだろ、そこ。
好きな匂いっていったいなんだろう。前述の『夜のにおい』は好きというにはすこし切なすぎる。オカンの服を着ると、彼女のにおいがするけれど、べつに好きではない。夜道の住宅街を散歩していてどこからともなく漂ってくる、どこかの家の晩ごはんの匂い。あれは好きだ。あ、肉じゃがだ、とか、カレーだ、とか、さんまの焼いた匂いだとか、話しながら歩くのも楽しい。銭湯の匂いも好き。あれはカビの匂いと教えられてとても残念な思いをしたけれど、銭湯はきらいなのに銭湯の匂いは好き。もしかしたら一番好きかもしれない。
最近は香水を身につけている人が少なくなった気がする。バブルの時代は、猫も杓子もつけていたのではなかったか。わたしは銀座で働いていたので、あの頃は街中がいろんな匂いに包まれていたんだろうなあー。あ、『匂い』と『包む』って漢字が似てる。
ところでうちのモッシュ君(プードル10才)が、来客の股間を必死に嗅ぐの、あれやめてほしーなー。もちろん女性にだけなんだけど、狂ったように嗅ぐんだもの。マジやめて、モッシュ君。キチガイ犬だと思われちゃう。
本日のオススメ本
先に映画を観てしまったのが悔やまれた一冊。小説からリアルににおってくる。