【ほ】放浪 ホウロウ
荷物が多ければ多いほど、放浪はむずかしくなってくる。モノとは限らない。人間も仕事も同じことだ。
あるとき、といっても数年前、
--あ、わたし、放浪ヘキがなくなってる!
と思った。んーーーと、理由を考えてみたら、放浪のだいご味『思い立ったが吉日』が実行できない状況にあるからだと気付いた。
まず、責任をもたなければならない家族がいる。荷物も家具もある。家(家賃)も仕事もある。あ~こんなモノぜーんぶ放り出して、どっか行きたぁーーーーーい!
わたしの放浪ヘキが発症したのは、一番遠い記憶だと幼稚園にさかのぼる。とにかくどこか知らないところへ行ってみようと、幼なじみのアヤちゃんをそそのかし、小さい足で延々と歩いた。もちろんどこを歩いているかわからない。イコール迷子ということに気付いたのは、日も沈みかけ心細くなってからだった。知らない墓地で西日にあたりながら、盗んだおはぎを食べたことだけは覚えている。
小学校1年生のとき、京王線をまっすぐ歩けば島根(ばあちゃんが居たところ)に帰れると思い、ひたすら線路上を歩いたこともあった。なにかのときにと20円をしっかり握りしめていた。生粋のバカだったんだろうか。とはいえあれは、目的があるので放浪とは言わないか。
小学校の遠足で、さあ電車に乗ってお家に帰りましょうというときに、どうしてももっと遠くへ行きたくなった。このまま帰るのはイヤだと思った。わたしは先生の目を盗み、行き先もわからない車両に乗って、ひとり、夜の景色をものめずらしく眺めたものだった。終点などなくて、どこまでも遠くへ運んでくれそうな気がしていた。そのあと大事件となった覚えはあるのだけど、どうやって帰ったのかはさっぱり記憶にない。それよりも網棚にリュックや水筒の荷物をまるごと忘れてきてしまい、オカンに発狂され翌日また駅まで取りに行ったことのほうが(わたしにとっては)重大事件になった。
わりと厳しい(と思いこんでいたのかもしれない)家だったので、未成年の旅行は禁じられていた。だからどこか泊まりで出かけるときは、必ず事後報告となり必然的に『家出』となる。自分ではちょっとした旅行のつもりなのに、帰ってみると大騒ぎになっていることなどしょっちゅうだった。野宿したり知らない車に乗ったりするもんだから、よけいに禁じられていたのだろう。そうしてまたフと思い立ち、その日のうちに息をひそめて軽装ででかけてゆくという悪循環。キツネとタヌキの化かし合い。いたちごっことはこのことかもしれない。
今思えば、ちゃんと説得すれば旅の許可もでていた可能性もあるが、行く先、宿泊先、期間のすべてが未定では、さすがに承諾は得られなかっただろう。とにかく「ダメッ!」と言われるのが恐ろしかった。
結果、オカンの発狂が待ち構えていることは必至なのに、わたしは必ず無言で出ていくのだった。臆病者なのに気が大きい。あとは野となれ山となれの精神は、放浪ヘキが沈静化した今でも自分の体内に色濃くのこっている。
無賃乗車もした。学校へ行くために電車に乗っていたら、いい天気だからと京都まで行ってしまったこともある。たった120円で。キセル、である。
東京を出ない小さな冒険からその範囲は徐々に拡張され、長野、新潟、大阪、神戸、奈良、そしてカリフォルニア、色々な場所に行きついた。
女だてらによくここまで生き伸びてこれたもんだと思ったりもするが、今はこうして
「どっか行きたーーーい!」
と叫んでみても、即実行する余裕がない。余裕なのかな、勇気かな。んーちょっとちがう気もする。
責任があるからいけないのだ。放浪したってもう誰からも叱られないはずなのに、親元を離れて自由になったとたん予期せぬ『責任』がわたしを支配してがんじがらめにする。
やだね~責任。なにもかも放棄して裸一貫、またあてどもない旅をしてみたいと思うのだけれど、なにかがわたしを離さない。大人になった、なってしまったってことだとしたら、それはちょっとさびしいことです。着の身着のまま、十字路の道路に木の枝を立てて、倒れた方向に進んでいくような放浪を、あーまたしてみたい。
あ、でもあれか。痴呆症になって正々堂々と放浪(徘徊)すればいいのか。
まだあった! わたしにはその道が残されている!
あ~希望がわいてくるなあ~。そうでもないな〜。
本日のオススメ本は2冊!
放浪しつくした山頭火。中でも一番”らしい”本。(とわたしは思ってる)
10才から放浪していた記録。読んでてひどく辛くなる、人の悲哀。
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